「人それぞれ」論

大学院生活も終わりが近づいている。修士論文は提出し終えたし、本日口頭試問も終えた。非常にすがすがしい気持ちである(英語の課題とゼミ発表が残ってはいるが)。

今期とった数少ない英語の授業で教科書を見て話し合う機会があるのだが、そこで感じたことについて少し考えてみたい。「人それぞれ」という言葉の使われ方についてである。 詳しくは覚えてないが、その時のディスカッションのテーマは「こんなピンチのときあなたはどうする?」的な話であった。そこでペアになった留学帰りであろう英語ペラペラの男子生徒は僕に向かってこう言った。

「人それぞれだよねー」

僕、この言葉を聞くと不思議と全やる気を失ってしまうのです。どんな質問が来ても「人それぞれだよね?」と答えまくる彼。僕は次第に怒りさえ覚えていった。でも英語しゃべれないので噛み殺した。

というわけで、僕がなぜこの言葉にこんなにもセンシティブなのか、考えてみた。


理由1:自分のこと器が広いと思ってない?

これ本当に稚拙な理由なんだが、「人それぞれ」って言葉は自分を大きく見せると思うのだ。「相手は相手でこれまでの人生があって、それによって培われた考え方があるのだからそれを違うとか言うのはちょっと」みたいなスタンスはいやがおうにもその人の度量の大きさを見せつける。

でも違うんだ。いや違くないんだけどそうじゃないんだ。というのが今回僕の言いたいこと。これは次の理由に繋がる。

理由2:それ言っちゃおしまいじゃない?

だって、「人それぞれじゃん」とか言い出したら人間が話し合う意味が無くなってしまう。なんかそれは違う気がするのだ。という違和感を抱えていたのだが、以下の本にこの「人それぞれ」論争の一助となる文言があった。


しかし最近では、文化相対主義は、人間の共通性を分断してそれぞれの固有文化に人間を閉じ込め、異文化間の相互理解を不可能だと決めつけるものだと批判され、さらに、反人種主義の支柱であった文化相対主義が人種主義として非難されている。

p29
そうそうそう!という感じである。

文化相対主義というのは文化人類学において「習俗の価値はそれが行われている特定の文化の文脈全体から捉えなければならないとする思想」(p29)のことである。平たくいえばそれぞれの文化はそれぞれの考え方がある、といったところだろうか。このことが「異文化間の相互理解を不可能だ」とする考え方に繋がるというのである。つまり「人それぞれだし、話してもムダですよ」ということである。

なぜそうなってしまうのか。その理由は文化相対主義を「結論」に置いているからだと考える。「Aは○○でBは××だから、結果人それぞれだよねー」(結論としての文化相対主義)といった文言は虚しさを覚えないだろうか。だってそりゃそうなのだから。

では文化相対主義の正しい捉え方とは何なのだろうか。同著から考えるにそれは文化相対主義は「前提」として捉えられるべきだということである。「人は物事の考え方が異なる(文化相対主義的発想)。Aは○○であるがBは××である。なぜこのような違いが生まれるのだろうか」というのが好ましい考え方なのではないだろうか。このとき文化相対主義は話しの出発点であり、前提である。要するに「誰もが納得するような絶対的なモノサシ」なんて無いんだから、徹底的に意見すり合わせていこうぜというわけである。


人とつきあうってしんどい

組織などに属した場合、その組織の大切にしたいコトというのはたいてい言語化されているのでそれがモノサシにはなりうる。にしてもやはりそのモノサシを見る見方にも齟齬が生まれたりするものだ。というわけで結局は意見をすり合わせる必要性というのは変わらず存在することとなる。

対話し続けなくちゃいけないのってしんどい。やっぱりある程度考え方が合っている人とたむろしている方が楽な気がする。でもそうするとなんか自分がダメになっていく気がするのです。意識して日々理解しがたいモノに向かい合っていくのが自分には向いているのかもしれない、という話でした。