今ここにいること/宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』

ときどき、小説も読むんですね。
東野圭吾とか谷崎潤一郎が好きなんですけど、この前読んだ宮下奈都の本が面白かったのでご紹介します。
『太陽のパスタ、豆のスープ』

主人公のあすわは突然婚約者の譲から婚約破棄されます。
それがきっかけでぐちゃぐちゃになるあすわの生活。
様々な人の助けを借りて、あすわが自分の手で自分の生活を立て直す物語です。

印象的なのは、ル・クルーゼとか、豆とか、フリーマーケットとか、エステとか、すごく出てくる単語が日常的なこと。特に大きな事件も無いし(婚約破棄は冒頭であるけど)、あすわという女性の日常に密着した物語です。


「毎日」

最終的にあすわは立ち直るわけですが、その理由としては「毎日」に関わったからだと言っています。ちょっと曖昧な言葉にはなりますが、意味としてはそれまで実家に暮らしていたあすわが一人暮らしを経て、今までしてもらっていた様々なことを自分でするようになったことだと思います。

僕も実家暮らしなのでわかるんですけど、本当に時間って勝手に進んでいきません?
起きて、ご飯食べて、支度して、授業行って、バイト行って、帰ってご飯食べて、お風呂入って、寝て、みたいに。
自分の生活に自分が関わっていない感覚というかなんというか。

しかも最近暮らしのスピードってどんどん上がっていってると思います。いかに同じ時間でたくさんのことができるかということ、効率性が重要視されているのもあるのかなーと感じます。
そんな毎日だと本当に一瞬で自分の1日って終わりますよね。知らないうちに。

自分事の外部化

話は変わりますが僕、元旦に腕を怪我したんですけど(勘違いされそうな怪我ではある)、その時に久しぶりに病院というものに行ったんですね。
結構血とか出てて、1週間くらい止まらなかったんですよ。
治療してもらって治ったわけですが、そこでいろいろ感じました。

だって腕の傷口に塗ってもらってる薬の正体ってわからないじゃないですか。
自分の体のことなのに、お医者さんのアドバイスに従わなきゃいけない気がするし。
あと、他ならぬ僕も傷口の応急処置の方法がわからず、ひたすら右往左往していた記憶があります。

自分の体のことなのに、自分より他人の方がよくわかっているという状況。
なかなか不思議な現状でもあります。

ふわふわ生きる

「毎日」に関わることと、病院の例によって言いたいことと言いますと、いかに日々「ふわふわと生きているか」ということです。つまり今やっていることが「よくわからず生きている」状況というか...

それってすごく楽でいいことなんですけど、時々デメリットもある気がします。
ちょっと感覚的な表現になっちゃうんですが、常に「不安」に襲われることです。
だって今自分がなにやってるかわからないんですよ。頭の中も変に暇だし。よくわからないこと考えて、余計な不安を抱えちゃいそうじゃないですか?

あすわはそういった状況を「毎日」に関わることで打破しました。
つまり「今自分がなにやっているのかをどんどん意識化」していったんですね。今に集中して、余計なことを考えない。

たくさん考えなきゃいけないことがある世の中ですし、ふわふわと生きるのってすごくいいことです。だからこそ、時々「今ここ」に集中する瞬間があると、地に足が着くというか、余計な不安を抱えずに生きられるのかなーとこの小説を読んで思いました。

みなさまよければぜひ。