K-POPの日本語化への違和感

先日、SEVENTEENのライブ@さいたまスーパーアリーナに行ってきました!
相変わらず最高でした(ウォヌが機嫌良くてなにより)

「LOVE LETTER」とか「20」とか、彼らの持ち曲の中に日本語化された曲があります。
この日も歌ってくれたんですが、個人的に言うと複雑な心境でして...
それだったら韓国語の曲を聴きたいなーと思う気持ちもあるのです。

違和感の正体、わからずにいたのですが、先日手がかりになる言葉に出会ったので書いてみます。


「距離」の必要性

大学院での専門は文化人類学なのですが、その中でレヴィ=ストロースという学者がいます。
結構な人なのでご存知の方もいるかもしれないのですが、彼はこういう言葉を残しています。

創造に満ちた偉大な時代とは、遠く離れたパートナーと刺激を与え合える程度に情報交換ができ、しかもその頻度と速度は、集団・個人間に不可欠の壁を小さくしすぎて交換が容易になり、画一化が進み多様性が見失われない程度に留まっていた時代

創造を生み出すには、他者との間にある程度の「距離」が必要だという言葉です。
すごくごもっともですよね。

個人的にK-POPにハマりだした理由として、そのステージングが好きだというのと、その曲を自分のものにしていく過程が好きだということがあります。
後者はどういうことかというと、例えば単語を調べたりだとか、音を分解して聞いてみたりだとか、掛け声を調べたりだとか、そういうことです。
そういうステップを踏んでいって、歌っている彼らに近づいていくのがすごく楽しいんですね。

それってぽっかり空いた距離を埋めていく作業であって、つまり前提として長い距離があるわけで、レヴィ=ストロースの言ってることもわかります。

距離の縮め方

その一方、「韓国語曲の日本語化」によっても距離は縮まるじゃないかという意見もあります。
こっちから行くか、そっちから来るかの違いというだけで。
たしかに距離に関してはそうなのですが、こっちからそっちから問題はすごく重要なのです。

僕の意見として、彼らが楽曲準備に時間をかける分、こちらにも準備する余地がほしいんです。
少しでも平等な立場(こっちも少なからず準備をしてきた)で楽しみたいんですね。
なのでそっちから来られると、「向こうから与えられるものをただ消費している自分」っていうのに気付いて冷めてしまうのです。

ただでさえJ-POPのことばもどんどん理解しやすくなっていって、聞くことに「労力」が伴わなくなっている中、見つけ出した解決策がK-POPだったのかもしれません(まあ調べてみたら韓国語の曲もあまり大したこと言っていなかったりもしますが)

自分が関わるのりしろがあるK-POP

というわけで、結論からすると「その曲を自分のものにする過程」というのが韓国語曲の日本語化によって奪われていっちゃうのがさみしいのかなと思います。

まあこんなことを言っていても、結局SEVENTEENが日本語を話してくれるのは嬉しいですし、日本語曲にもノってしまうわけなんですが。このくらいの距離が続けばいいなと思う今日この頃です。