「体験」することは大事か

バックパッカーなどの旅行、インターンなど、大学生のうちに「やっておいた方がとされている」ことがある。時間のある内に様々な体験をしておけ、といったことである。ある種、これは正しいと思うのだが、その一方危険性もはらんでいる気もする。そんなことを風呂でのぼせながら考えた。
体験至上主義の危険性

「体験してみなきゃわからないよ」的な言説の危険な点というのは、要するにそれじゃ語れる範囲が極端に狭まってしまうということだ。たとえばディスカッションの授業の中で「魚の乱獲についてどう思うか」といったテーマに対して、「乱獲してないしわからない」って言っちゃったらそれでおしまいだ。その場面を想像してみて、疑問点なり意見なり出してみないとダメだ。

想像力という意味において、もう1点体験至上主義の危険な点がある。それは戦争とか災害とか二度と繰り返されることを望まないことに対して理解を阻むことだ。体験至上主義者が言ってることは極論「戦争のひどさを学ぶには戦争してみなきゃわからない」って言ってることと変わらない。極論だけど。

体験したものは真実なのか

体験することっていうのは紛れもない真実に触れることだという考えがある。確かにバリ島のケチャの伝統性というものは見てみなきゃ、聞いてみなきゃわからないかもしれない。ここでもうひとつ考えたいのは、だからと言って実際に触れたものが真実だとも限らないということである。たとえば先ほど述べたケチャを見て我々はある種の「民族性」「伝統」といったものを感じるわけである。しかしケチャはバリ島でもともと踊られていたものをドイツ人のシュピースという画家が、観光用に改変したものである。

というわけで体験したものも、「体験したかったもの」と同一化は私たちには判断しようが無いのである。

知識の役割

となると「体験」の絶対性っていうのも薄れてくる気がする。本や人から得られる「知識」とあまり変わらないのではないか。でもあまり二項対立的に考えても仕方ない気はする。きっとそれらは自動車の両輪となって機能するんではないか。つまり体験したことを補足・修正するものとして知識があり、知識を基にもう一回体験してみるとまた違った体験につながるといった風である。ぐるぐるしているのだ。

体験体験と外に出るだけでなく、家で得られる知識もきっと大事なのである。どちらも疎かにされたらもったいないものだ。きっと。