僕は好きになって語れるようにならなきゃいけない/佐藤郁哉『フィールドワーク』



すごく面白かった。
文化人類学者と言われる人たちはそれぞれフィールドを持ち、そこをフィールドワークして、民族誌という形で世の中に成果報告する。フィールドはアマゾンの森の奥からインターネット上の掲示板だったり様々だ。

でもひとつ疑問が生じる。それだったら現地の人々、現場の人々、つまり「当事者」が自分自身のことについて説明するのがいちばんシンプルなんじゃないか。「人類学者」という存在が現地の人々とその他の人々の間に存在する意味はあるのか?という疑問である。

この本によると結論から言えば、ある。

というのも当事者は当事者自身のことをそれほど言葉で説明できないからだ。例えば僕アイドルが好きなんだが、「なんで好きなの?」と聞かれると、「そりゃ好きだからだよ」ってなるわけである。好きになった理由とか、きっかけとか、背景とかがあるはずだけど上手く説明できない。

そこで人類学者が出てくるわけである。人類学者は当事者と部外者の橋渡しをする。つまり当事者に関するあらゆることを、部外者に理解可能な形で説明を試みると、こういうわけである。

そのために人類学者はまず第一に当事者について通暁していなければならない。その手段がフィールドワークである。さらに彼らのことをあらゆる理論によって説明しなければならない(このことが孕む暴力性などについてはのちほど)。

以上、本を参考に書いてみた。人類学者って何してるの?っていう問いにずっと「むぐぅ」となっていたが、なるほどこういうことかと腹落ちさせられる本であった。

僕たちは何か人より詳しいものを持ってることが多い。でもそれを「なんで?」と聞かれると詰まってしまう。時には「野暮なこと聞くな!!」と言いたくなることすらある。

確かに好きなものを言葉で説明する過程で、「ああ、こういうことじゃないんだけどな」ということがあったりする。言語化するとあらゆるものを捨象しなければならないから当然っちゃ当然である。

でも僕たちはそれをしなければならない。他人を理解する・他人に理解してもらうということを諦めてはならないのだ。

最近溢れる「異文化理解」や「多様性を受け入れる」という言葉。上滑りしてる感じがあると僕は思う。そんな中で僕たちができること。きっと誰か(誰かの中には「自分」も入る)と接触し続け、説明し続けようとすることなのだろう。