「批判」を見るのが最近辛いっていう話

大学院を修了し、社会人(っていう言葉好きではないのだけど)になりました。今日はお休みだったので、パスポートを申請しに行きました。そのために戸籍抄本を取りに役所に行ったんですが、役所のお仕事って大変そう。だって怒ってる人が多いから。

最近、人の怒りに敏感です。
職場の近くのカフェに行けば店員と客が諍いを起こし、大好きなYouTubeを見てもコメント欄では単なる攻撃的なコメントが目につく。テレビをつければ野党が与党を糾弾している。もうおなか一杯です。ていうか疲れない?って感じです。 「批判」にもいろいろあると思うんですけど、ここで僕が批判する「批判」(レトリック!)は以下のような批判です。

1.単なる攻撃
 「なんでこんな奴がこんなこと語ってるのかわからない」系のコメント。

2.怒りの発展
 「言葉づかい気をつけろよ」系のコメント。

3.自分のプライドや地位を保つために行われる
 「教えてやってんだから素直に聞け」系のコメント。国会とか見てるとこれが蔓延ってる。

互いにオーバーラップするところもありますが、要するに「何の生産性も無い脅し文句」が僕は嫌いなのです。

学校では批判っていうのは「相手の欠点を指摘し、『より良いものに』するためのコメント」だと教わりました。自分の意見無き批判は許されません。特に僕の専攻していた文化人類学の教授陣は自分の経験からか驚異的に寛容な方々が多いです。そのような中で育ってきた僕だから、攻撃に終始している単なるアンチとか、やめた方がいいって思っちゃうんです。

チェコ好きさんのブログ大好きでよく拝見しているんですが、このような文章がありました。

私が考える「批評」というのは、作品であったり物事であったりの、新たな価値を見いだすことです。「この作品はAの部分が面白いといわれているけれど、実はBっていう面白さもあるよね」とか、「この出来事はAという観点から語られることが多いけれど、実はBっていう側面も持っているし、そちらのほうが真実味があるんじゃないかね」とか。私はそういう考え方をするのが好きだし、文章にしていて楽しいんです。

この文章では「批評」となってはいますが、僕が今回書いている「批判」についてまったく同じ意見です。

誰かがやったことに「批判」が沸き起こる社会はもうまっぴら御免です。誰だって頑張って生きようとしてるんだから、こっちも頑張って「良い批判」したいものです。