好きなものを信じること(常見藤代『イスラム流幸せな生き方』)
おうち時間、皆様はどのように過ごしているんだろうか。私もおうち時間が増えたことによってひとつ小さな変化があった。それは「お酒を缶で買う頻度が減った」ということである。レモンサワーを缶で買っていたのが、レモンサワーの素と氷と炭酸水を買うようになった、というだけなのだが。でもやはり安くておいしい。
通勤をしていた時は酒を作るのも面倒だったのだが、少し余力ができてきたのだろうか。いいことだ。
アイドルの動画を見るのが好きなのだが、集合することも難しい昨今、なかなかステージの動画もあがってこない。なんというかハリが無い毎日である。
そんな中でイスラム教についての本を読んだのだが、今の気持ちと通ずるところがあったので備忘録としてメモっておく。
印象的だったのが、本で取り上げられていたイスラームの人の「偶然の幸運」に対する態度だった。私とかなら「(まあ偶然だし...)」と考え、ラッキーとは思うが、特に気にはしない。だがそのイスラームの人は「普段熱心に祈っていてよかった」と言ったのだ。
ムスリムの友人によれば、「なにか良いことがあった時、”やっぱり神様が見守ってくれてるんだ”って思うのと、”こんなの偶然さ”って思うのと、どっちが楽しい?
彼らの頭の中にはラッキーだったことも、普段祈っていたおかげだ、と処理できる思考回路があるのだ。面白くないですか。
何かを信じること、応援することってすごくコストがかかる(時間、お金、体力、裏切られることだってある)。だが「それでも信じ続ける」という行為によって、我々はもしかしたら幸せの質と幅を変えられるのかもしれない。
そういえば私も最近、応援しているアイドルが素晴らしいビジュアルで雑誌に掲載されているのを発見した(韓国の雑誌だったが)。これを見たときには「応援していた甲斐があった」と少なからず思ったものだった。
もしかしたら宗教を信じるのと似ているのかもしれない。
自分が死ぬ気で取り組んだ仕事が認められたら幸せだし、努力した結果スポーツの大会で優勝できたらそれも幸せだ。ただその種の幸せを感じることができるのって、ほんの一握りの人間だけである。
そうじゃない人間にとっては日常に転がっている小さな幸せを拾い上げるだけでかなり精いっぱいなのではないだろうか。だけど日常に小さな幸せってそんなに転がってなかったりもする。自分で幸福感を生み出すのはすごく難しい。
そうなると自分以外が生み出した幸せを喜べるようになれば、もっと私たちが生活で感じることができる幸せの量は増えていくはずである。そのための装置が「信じる」ということなのではないか。信じることは他者の幸せを、自分のモノにすり替えることができる手段なのかもしれない。
やっぱり好きなモノがあるっていうのはいいね。明日も頑張ろう。