【感想】西井涼子編『人はみなフィールドワーカーである』

「フィールドワーク」という言葉を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがある方はどのようなイメージを持っているだろうか。文化人類学を学んでいる人にとっては身近な言葉であるが、そうでもないとあまり普段の生活で聞く言葉ではないだろう。

文化人類学においてフィールドワークとは対象の文化を分析する前段階のデータ集めのために、実際に現地に赴き調査することを言う。とはいえ例えばアマゾンの森の奥深くに住む民族を訪れ、滞在するような調査のみをフィールドワークというのではない。私たちの日常生活にもフィールドワークできる機会は潜んでいる。

というわけで『人はみなフィールドワーカーである』を読んだので感想を記す。フィールドワークという行為が、少しでも私たちの身近なものになればいい。

 

 フィールドワークとは

日常におけるフィールドワークとは、当たり前の日常に「他なるもの」を感知し、それを自らのなかで掘り下げることで、これまで見えなかったものを見る視点を獲得する技法

p12

 

結局は「他なるものを理解して、自分の価値観を変えるための手段」ということになる。本書の中ではカナダの文法を研究するため、ヨルダンでインティファーダについて研究するためになど、それぞれの研究者がそれぞれのフィールドでフィールドワークを行っている。

 

フィールドワークのふたつの側面

①科学的な側面

マリノフスキーは科学的方法論としてのフィールドワーク論を展開している。それは次のような三点に集約される。

第一に、真に学問的な目的を持ち、近代民族誌学の価値と基準を知ること、第二に、仕事のためにふさわしい環境に身を置くこと、すなわち「原住民」のどまんなかで暮らすこと、そして第三に、証拠を集め、操作し、決定するたくさんの専門的方法を用いることが、科学的な客観的データを得るために必要なこととして強調されている。

p16

 

文化人類学者が言う「フィールドワーク」は、他の人が言う場合と少し違う。それが上のような点においてである。「フィールドワーク」は「何か人間の大切なことを発見するぜ!という気持ちのもと、フィールドの真ん中で暮らしながら、専門的方法によってデータを収集する」のが重要である。

とはいえ、フィールドワーク中に重要なのが「偶然」である。どんなに整っている研究もそんな順風満帆に進んだはずがない。どんなフィールドワークも人から騙されたり、それによって何日間も調査が行えなかったりということは往々にしてある。とはいえそういった偶然によって新たに発見できることもあるので、決して無駄ではない。

 

②感性的な側面

新たなフィールドワーク論では、科学的であろうとすることより、フィールドワークの原点、個人的な感動、「異なるもの」への驚きや怒り、嫌悪を素直に感じ表現することの重要性が指摘される。

p24

 

文化人類学の面白いところは「100%客観的な研究!」を目指すことを諦めたことにある。よく研究を読んでいると「私はすごい怒った」とか「私は不覚にも泣いてしまった」とかそういった描写を目にすることもある。そんなん他の研究分野では許されない。

しかし文化人類学はそういった調査者の感性を重要にする。なぜかというと感情は今でも読者の共感を誘発する大きな要因であるからだ。「他なるものを理解する」ことをいちばん大きな目的に据えている文化人類学は、その研究結果を読む者が「他なるものを理解できるよう」にわざと調査者の感情を記述し、読者の共感を誘発しているのだ。

 

フィールドワークのプロセス

①フィールドの選択

結局フィールドの選択はいくつかの偶然の積み重ねだと思う。そのフィールドに出会えた・そのフィールドに入れた・そのフィールド内で気になることを発見した...など様々な壁をクリアできてこそである。

大学院生時代先輩に言われてたことは、「結局好きなところをフィールドワークするのが良いよ」ということである。なぜならば我々はそこに居続けなければならないからである。

 

②問題発見

そのフィールドに入ってみて、さあ何が問題なのかということは一朝一夕には発見できない。本書によればそれは「ある瞬間に突然見えてくる」(p25)とのこと。

 

③身体によるフィールドワーク

フィールドの人々との距離を感じる「違和感」や、フィールドの人々と自分に共通点を見いだせる「共感」は調査を進めていくうえで重要な感性的ポイントだという。

 

④人と人のつながり

調査の成功はフィールドにて出会う人によるものが大きいということ。

 

⑤研究者の責務

フィールドに入り込み、様々な人から話を聞きながら調査するため、少なからず調査者には責任が生まれてくるということ。

 

フィールドワークの意義

フィールドワークにおいていちばん重要な意義は、私たちを取り巻く常識を冷静に見直してみることにあると思っている。だから我々は「他なるもの」を知りたいんだと思う。

別に陸の孤島に3年間住め!っていう話ではない。例えば誰かと話しているときや読書中などふと「違和感」を感じるときってないだろうか。それは私たち自身が身体で感じ取ったフィールドワークをするためのきっかけである。その違和感を通じて、「そもそも私にとっての『普通』ってなんだったっけ」と考え直すことで、自分自身の価値観を少しずつ変えていけるのである。