コロナに想像力が殺されないように(松村圭一郎『はみだしの人類学』)

皆様、どうお過ごしだろうか。

2020/4/19現在、政府から発された緊急事態宣言は日本全国に及び、「不要不急の外出」という単語が急に取沙汰されるようになった。

私の職場も急速に在宅勤務を取り入れたおかげで、徐々に出社することも少なくなり、今や外出する機会はごはんを買うときくらいになってしまった。もともとインドアな人間だと自負していたけど、「外に出るな!」という状況になると出たくなる。天気も良いし。

コロナ以前と私の生活が大きく変わったのが、旅行ができなくなったことだ。去年は暇さえあれば、国内海外問わずいろいろなところに足を運んだものだが、当然今年度になってからは一度も行っていないし、この騒動が終息するメドが立ってない以上、予定を立てることもできない。これが非常に苦しい。

私にとって旅行は苦しい「今ここ」から抜け出す方法だし、旅先で少なからず気持ちをリフレッシュし、自分自身を少しだけリニューアルできる手段だった。それを封じられた今、なんとなく自分の中の何かが淀んでいっていくのを感じる。

国同士が国境を物理的に封鎖し、交流が絶たれつつある。日本国内でも電車で咳をする人がいたらそれをにらみつける人がいる。なんでこんな世界になってしまったんだろう。

そんなことを思っていた時に思い出したのが、大学院入学にあたり専攻を心理学から文化人類学に変えた大学4年当時のことだった。「異文化理解」についてどんな学問よりも真摯に向かい合っているその姿は、当時の私になぜだか響くものだった。

決して優秀な学生ではなかったが、その時の気持ちを最近思い出したので1冊本を読んでみた。『はみだしの人類学』という本である。

世の中にある「初学者向けの」人類学の学問書には「家族」とか「民族」「贈与」とかあるあるなテーマが取り上げられ、遠く遠くの人々を描いた古い古い学者の理論について説明されることが多い(絶対こういうこと言わない方がいいんだけど)。それはそれでいいんだけど、「じゃあ今はどうなの?」「要するにどういう考え方が文化人類学的な考え方なの?」という疑問に対する答えは文字を辿ってみても自力では導き出せないことが多い。

本書は100ページ強で読める非常にライトな本である。ただし「つながり」というひとつのテーマをもとに文化人類学的な考え方について触れている。文化人類学にご興味をお持ちの方にはぜひオススメしたい。

本書は以下の4章から構成されている。

第1章 つながりとはみだし

第2章 「わたし」がひらく

第3章 ほんとうの「わたし」とは?

第4章 差異とともに生きる

なんとなくまとめてみたい。

私たちにとっては「個人」という考え方は身近なものだ。なるべく他人に迷惑をかけないように「個人」で自立しなければならないし、自分の人生を決めるのは自分という「個人」だ、みたいな言説はよく見かける。でも本当に完全に独立した「個人」ってあるのかな?というところが出発点である。

筆者は自分のフィールドワーク(島根半島エチオピアなど)より、『「わたし」がひらく』という経験をした。

フィールドで長い時間を過ごしていると、自分の殻に閉じこもっていられなくなります。(中略)そこで他者とのあいだに結ばれる「つながり」は(中略)「わたし」の存在を揺さぶり、輪郭が溶け出すようなものにならざるをえない。

p52

つまりだれかとの「つながり」によって自分という「個人」が少しずつ変容していくのを感じたのだ。となるとやっぱり完全に独立した「個人」って無いのではないか。

文化人類学は異文化を理解するためにフィールドワークをするが、それはどっぷりとその文化に触れることで、自らを「ひらき」、変容させるためであるとも言える。そこで出てくるのが比較、という手段である。

でも比較にもいろいろある。大事なのは2種類の比較だという。1つ目は「自文化」と「異文化」の前提をもとにした比較だ(イスラム文化を調べよう!とかそういう言葉の裏には、「イスラム文化」という文化がある、という前提がある)。これはある種差異を強固にする手段である。

そしてもうひとつ、今ある境界線を引き直す比較というのもある。例えば「日本文化」と「イスラム文化」はそれぞれ確固とした文化としてあるように思える。でも本当にそうなのか、と疑うことだ。どちらの文化にもこどもはいる。男性もいる。となると、今引いている境界線以外にもたくさんの境界線が引けることに気づく。そこでわれらとかれらの共通点を探る方法だ。

人は誰しもひとつの面のみで生きているわけではない。私は会社員で男性で成人で営業職で旅行好きな日本人である。ほかにもあるかもしれない。私を理解するには「日本人」というカテゴリだけ「男性」というカテゴリだけで境界線を引き考察されても不十分だ。もっといろんな面を見て!ということなのかもしれない。

 

コロナに想像力が殺されないように

というわけでコロナウイルスに打ち勝つための方法ではないことをつらつらと書いてきた。

先に書いたようにコロナは国境とか自分と他人とか、そういった境界線をよりくっきりとしたものにした。それは国境封鎖とかソーシャルディスタンスみたいな形で現れる。さらにコロナという文脈があると、これらはたやすく可能になってしまう。

しょうがないことと思っていても、こんなに簡単に人と人とのつながり方は変わってしまうんだ、ということを改めてまじまじと見せつけられた気分になっている。

旅行も飲み会もしづらい今、このくっきりとした境界線がより強固になってしまい、自分以外への想像力が失われてしまうのが私はいちばんビビっている。

なにができるのかまだわからないけど、今はインターネットという素晴らしいものがある。最近私もオンライン食事会なるものをしてみたが意外と悪くない。つながれる方法は、まだ残されている。

こんな今だからこそ、コロナ以外の話題で自分以外に興味を持つことが大切なのかもしれない。

 

コロナ以後の世界

何をもって終息というのか、その後人の移動は前のように行えるのか、いろいろわからないことは多い。だからこそ不安も強い。

現状できることはとりあえずなるべく外に出ないことしかない。とはいえオンライン飲み会とか、ダンスレッスンとか(ダンスしてるんです)、新たなオンライン文化が生まれていることも確かで、しかもメリットも多い。今だからできるつながり方に希望を託すしかない。がんばろう、地球!