ものを覚える・忘れるとはなんなのか:『殺人者の記憶法』を読んで
最近、「覚える」ということをよくする。新入社員という立場上、会社のシステムや自社製品は覚えなければならない。しかし興味が無いことは忘れる。忘れちゃいけないんだが忘れる。大学受験のときにあんなに詰め込んだ知識も今ではほぼ忘れている。因数分解とか、できるんだろうか。
といったように、覚えると忘れるは表裏一体のものである。知識という名の記憶はあればあるほどいいという世界で僕は生きているため、忘れることは悪だという価値観を少なからず持っている。でもきっと大多数の人はそうなんではないだろうか。
さて僕たちは誰もが記憶が0の瞬間がある。つまり産まれた瞬間である。今はもう二度とあの瞬間には戻れないわけだが、記憶が「無い」状態というのは一体どのような状態なのか。ふと疑問に思った。
こんな疑問が沸いたのはこの本を読んだからである。
(ちなみにだが最近韓国文学に興味がある。理由はわからない。K-POPが好きだからか?)
以下、ネタバレありかもしれないので要注意である。
主人公は事故がきっかけで認知症になる。何をしようとしていたのか忘れ始め、次第に自分が何者なのかわからなくなる。自分が1年前何をしたのか、昨日何をしたのか、1時間前に何をしたのかが思い出せない。
思い出すヒントとなるメモを残しておくのだが、症状が進むとそのメモを見てもピンとこない。思い出せないというよりはその出来事があったことが頭の中から消去されるのだ。
ぬるい水の中に、ぷかぷか浮遊している。静かで穏やかだ。俺は誰なのか。ここがどこなのか。空の中に、そよ風が吹いてくる。俺はそこでいつまでも泳いでいる。
(中略)
音も振動もないこの世界がだんだん小さくなる。どこまでも小さくなる。そうして、一つの点になる。宇宙の塵になる。いや、それすらも消える。
キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』
彼にとって世界は「水」になった。周りで何があっても「そよ風」にしか感じられない。最終的にはすべてが「一つの点」になって、「消える」。この世界は何なのか。
思うに周りの事全部がわからなくなったということだろう。ということはコップがコップでなくなる、本が本でなくなるということだ。コップと机と本の境界線が徐々にぼやけていき、どこからどこまでが何なのかが極限までぼやけていくということなのかもしれない。
ということは何かを覚えるということはものとものの境界線を知っていくということなのかもしれない。自分と誰かを隔てるもの。それが「記憶」ということなのかもしれない。
となると自らのアイデンティティと記憶というのは密接に結びつくことになる。ここらへんは僕的にも非常に興味があり、人類学的にも調査されているであろう分野である。面白いものがあったらご紹介したい。続報を待たれよ。