【感想】松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

モデルさんが政治的発言をしたら叩かれ、若者が政治的発言をしたら意識が高いと囃され…。政治的への興味が希薄な私からすればいずれの発言も「しっかり考えられててスゴイナァ」てなもんなのだが、なんでこのような発言ひとつがこれほどまで私たちの関心を煽るのだろうって思っていたんだけど、この本を読んでひとつ納得できるところがあったのでご紹介する。

 『うしろめたさの人類学』は人類学者の松村さんによる易しい人類学的エッセイである。私たちの生きる現実がいかにして構築されているのか、そして人類学はその現実に対してどう働きかけることができるのかということを、人類学の大家モースの贈与論をもとにして考えることが主題である。

 

「社会」はいかにしてつくられるか

ぼくたちは、どうやって社会を構築しているのか?

いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか?

(p81より)

 はて、どうやって私たちは自らの「社会」を作り上げているのだろうか。つまるところそれはコミュニケーションで関係・つながりを作り上げることによってだと松村さんは考えている。その際、キーとなるコミュニケーションの形が、「交換」と「贈与」である。

松村さんによるとこの2つのコミュニケーションには大きな違いがあって、

ぼくらは二種類のモノのやりとりの一方には「なにか」を付け加え、他方からは「なにか」を差し引いている。

それは、「思い」あるいは「感情」と言ってもいいかもしれない。

(p28より)

という点である。「交換」は感情を差し引くコミュニケーション、「贈与」は感情を付け加えるコミュニケーションというわけである。

エチオピアを訪れた日本人がまず驚くであろうことは、物乞いの多さらしい。赤ん坊を抱えた女性や手足に障害のある男性が駆け寄ってきてただ手を差し出してくる。私たちからすれば「なんで何もしてくれないのにお金を渡さなければならないんだ」と理由付けて彼らにお金を渡すことがためらわれるわけであるが、これは私たちが金銭のやりとりにおいて「交換」のモードに縛られているためである。そうすることで面倒な思いや感情に振り回されることを回避しているのである。

というわけで詳細は割愛するが、我々は「贈与」と「交換」という2つのコミュニケーションによって他人との関係性を作り、「社会」を作っていくのである。となると「社会」の存在というのも絶対的な実在ではなく、我々の行為ひとつひとつが積み重なった結果現れるひとつの形に過ぎないことになる。

 

私たちが「世界」を変えるために

私たちの「社会」の外にはもっと大きい「世界」という存在がある。国家とか、市場みたいな言葉で表されるそれである。格差をなくし、公平な世界を打ち立てるためには「世界」の構築に携わらなければならない。そんなこと私たちに可能なのだろうか。国家のことは政治家さんたちに任せておけばいいのではないか。

結論から言うと、この考え方は良くはない。国家や市場という仕組みにおいてはびこっているのは「交換」のモードである。つながりを断ち切るコミュニケーションである。そのため世界は分断され、各自の倫理性みたいなものも麻痺していくことになる。

そこで松村さんが重要視するのが「うしろめたさ」という感情である。例えば自分が優先席に座っているとして、目の前に腰の曲がった老人が立っている。ただ自分はめちゃくちゃ疲れていてめちゃくちゃ座っていたい。そのため狸寝入りをする。上手くごまかせたとしても、私たちが感じるのは「うしろめたさ」なのではないか。その時、「交換」のモードに縛られていた我々に倫理性が宿る瞬間なのである。

 

「世界」の変え方

うしろめたさを感じたら、そのうしろめたさを解消したいと思う。ただ身近な問題ならばいいが、それが「世界」の問題となると途端に私たちの思考回路は途切れてしまう。「かわいそうだけど、この問題はもっと偉い人が解決すべきことだ」と考えてしまう。しかし世の中の問題には国が解決した方がいいことと、そうではないことがある(優先席の問題なんて国が関与したら大変なことになる)。というわけでそもそも「ここからここまでは国の問題、ここからここまでは私の問題」みたいな境界線を引き直すことから始めようというわけである。

そもそも「世界」の中でも私たちは「交換」や「贈与」を変わらず行っているわけであり、市場は我々のそういったコミュニケーションによってできている。つまりもっと「贈与」して、「世界」につながりを作っていこうぜ、てなわけである。そうすることで我々は恐らく様々な問題に関してより敏感になる。すなわち「うしろめたさ」を感じやすくなる。そういった行為が周囲の人の「うしろめたさ」を呼ぶかもしれない。そうやっていくことで我々には「世界」を公平にする責任と能力があることを思い出していけるのだ。

 

というわけで、モデルさんが政治に関する発言をしてもいいし、むしろそれを責める人たちは政治を政治家の中に押し込めてしまっていることになる。政治家でなくても政治考えてもいいし、政治家にはできない政治的なこともあるのかもしれない。そうやって今ある境界線を引き直し続けることで私たちは「世界」と倫理的なつながりを持ち続けることができるのかもしれない。